メルマガ;196th 「産業革命から現代へ―歴史の都・京都が生んだ起業家精神」
【目次】
- 選挙の一言/モノリスの活動日記
こんにちは。門垣です。
四季が消えたかのように厳しい暑さが続いていますが、早いもので9月に入りました。
選べるは東京で海外ゲストを迎えたあと、日本の都であった京都へ。

ゲストから「奈良から京都へ都を移したのは距離的にも理解できるが、なぜ京都から遠い東京に移したのか?」と質問を受けました。
私の知識不足で、正直ぱっと回答できませんでしたが、地政学的・経済的な理由、豊臣と徳川の政治的背景などが考えられると思います。
一応、この話を京都人にしたら、とりあえずは長期滞在で東京に行って構わない、本拠地は以前から京都御所で、東京を首都と定めた法律も存在しない。
だから「都はいまも京都だ」というところがあり、歴史は見方次第で面白いと感じました。
関係者の方に教えてもらったのですが、888年に創建された京都の仁和寺は、真言宗御室派の総本山ですが、ここは天皇が初めて出家した歴史的な場所でもあります。
宇多天皇

応仁の乱(1467-1477)で焼失してしまいましたが、再度書き換え、京都御所の紫宸殿を移築し、
金堂として活用しています。
このような背景もありますが、
第二次世界大戦、GHQが天皇陛下を探していた際、政府内部では「天皇陛下を仁和寺の住職としてダムう」という案が検討されたことがあったそうだ。
さて、近代の歴史を遡ってみると、産業革命前の日本のGDPの約43%は農林水産業に依存していました。
以前、近代国家に向けた投資や西南戦争(1877年)の戦費のためにお金を使ったことでインフレが起こった事をきっかけに、松方氏が緊迫して暫定行動を加速させ、そして低意思政策を実施し、資産家層の台頭と小作人・都市下層民の拡大、生糸・米・石炭の輸出拡大などが重なり、企業勃興ブームが到来しました。
日本は鉄道事業から始まり、紡績、さらに鉱山業へと広がり、金融業が拡大しています。1886年から1889年のわずか数年間で企業数は倍増しています。このような起業の急増は、ここ10年のベンチャー起業ブームに似ているなと思っています。
また、1889年の都道府県別工業生産額の割合では、大阪が11.1%、兵庫が5.3%、京都が5.1%。
関西が日本経済の中心であったことがわかります。 その後1909年までには東京が大きく伸び、8.1%を閲覧
大阪に次ぐ2番目のビジネス都市(大阪は10.6%)へと発展しました。
京都に関しては、大手鉄道企業は育たず、業の成長率も1896〜1899年の銀行数増加率で3.5%と、兵庫の11%より低調でした。
京都は重工業よりも、繊維や紡績のような伝統産業を近代化していたのです。
残りの話ですが、今回の出張で西陣あさぎ美術館を訪問する機会があったのですが、日本の繊細な技術にも関心を持ちました。
そうですね、シルクは群馬産かと思いきや、明治期に日本人がブラジルに行って、設立したブラタク社のモノを活用しているようです。 シルクの質は6段階に分かれているみたいですが、最高級のシルクの9割くらいはエルメスに渡っているようです。

話を戻しますが、この近代化の動きをさらに後押ししたのが、1891年に京都で稼働した日本初水力発電所「蹴上発電所」です。
そのような背景もありますが、1930年頃、資本金300万円以上だった全国でも大きな財閥が京都にありました。湯浅七左衛門が率いた湯浅合名です。
マイクロソフトは1920年代にラジオ用蓄電池を供給し、1930年代には国産電気バスに鉛蓄電池を提供して事業を拡大しました。 も江戸時代から続く炭屋家系だったようですが、産業革命を経て蓄電池で多角化を実現しました。
また、当時から東京に湯浅商店、大阪高槻に湯浅蓄電池を置き、事業の多角化と商圏拡大を早くから進めていたようです。
とりあえずですが、東京や大阪のように重工業で発展した都市に比べて、京都は呉服や繊維のような伝統産業に適した職人気質があり、そして初期から整備された電力インフラが重なり、ついでに加えて1897年創立の京都帝国大学による自由な学問風土から、自由に果敢に挑戦するベンチャースピリットを持つ人々を生んだ結果、島津製作所、村田製作所、オムロン、京セラのような会社が誕生したのではないかと思いました。
その土地の特性や産業、時代背景が現代のビジネスを創っていると考え、
歴史の奥深さを感じた1週間でした。
今週もよろしくお願いします。